山岳地帯におけるスズメバチによる事故調査報告書を紐解くと、一つの共通したパターンが浮かび上がってきます。それは、登山道の途中で休憩していた登山者が、寄ってきた一匹のスズメバチをタオルで振り払ったり、叩き落としたりしたことをきっかけに、直後に数十匹のハチに囲まれて集団で刺されるという連鎖的な悲劇です。山という閉鎖的な環境において、ハチの警報フェロモンの働きはより致命的なものとなります。森の中では風が通りにくく、放出されたフェロモンがその場に停滞しやすいため、後からやってくる仲間にとって、敵の所在を特定するのが極めて容易になるからです。ある事例では、登山者が一匹のハチをストックで叩き潰した後、わずか一分以内に十数匹のキイロスズメバチが飛来し、その場にいたグループ全員が襲撃を受けました。この時、最初の一匹を殺した人の衣服に体液が付着しており、ハチたちはその人物を集中的に狙い撃ちしたという記録が残っています。スズメバチの社会性昆虫としての特性は、私たちが想像する以上にシビアです。彼らは個体の死を犠牲にしてでも、巣の存続を優先します。一匹を殺すという行為は、ハチにとっては「巣への宣戦布告」と受け取られ、防衛本能のスイッチを全開にさせます。山岳事故のデータが示すのは、ハチとの遭遇において「迎撃」という選択肢は存在しないということです。もし一匹のハチを殺してしまった場合、たとえその瞬間に他のハチが見えなかったとしても、フェロモンの拡散速度を考えれば、即座にその場から数百メートル以上離れる必要があります。また、ハチが黒い色を優先的に攻撃する習性も考慮しなければなりません。衣服にフェロモンがつき、さらにそれが黒色であった場合、ハチの攻撃は執拗を極めます。山に入る際は、ハッカ油などの忌避剤を用いることも有効ですが、最大の防御はやはり「刺激しないこと」に尽きます。一匹のスズメバチは、巣を守る高度なセンサーの一端であり、そのセンサーを物理的に破壊しようとすれば、システム全体の報復を受けることになるのです。過去の事故から私たちが学ぶべきは、自然の中での私たちの無力さと、生物が持つ防衛メカニズムの合理性です。ハチを殺すことで危機を脱しようとするのは、火に油を注ぐような愚かな行為であることを、過去の悲しい記録が証明しています。